昭和12年頃大樹園でも蔓延し甚大な被害を受け、食害により新芽が枯れている黒松の無残な姿に嘆いていました。しかしある日、虫に食べられた部分に小さな脇芽が吹いていることに気づき、二番芽の成長を見守っていました。秋になってみると、虫に食われなかった新芽の葉は長く、それと比較して二番芽の葉は顕著に短くなっていることに気づいたのです。
こうしたシンクイムシの被害にヒントを得て、人為的に芽を切ったらどうなるかと考え、その翌年、枯れてもいいという樹を犠牲にするつもりで全面的に芽を切ってみることにしました。その結果、予想外に結果がよく、これ以降芽切りの研究を続けていきました。 この時代の黒松の培養といえば、肥料を与えず、水も少ししか与えないようにして、葉を伸ばさないようにしていました。 芽切りの研究の結果、二番芽を出すための体力をつける必要もあり、多肥多水の管理が可能になり、枝づくり、樹づくりの面で、従来より飛躍的に作り込みやすい樹種へと変貌したのです。
白く続く砂浜と、青々と茂る黒松の雄大な姿。これが松の国を象徴する風景といえます。古くから歌になり、詩になり、絵になって、いずれの分野でも松が介在しないことはありません。 しかし、佐市が盆栽の世界に入った頃、黒松盆栽の評価は低く、売りに出されても誰も買い手がつかないひどいありさまだったようです。当時は五葉松の全盛時代で、多くの黒松が五葉松を太らすための接ぎ台として使われていたほどです。 黒松の低調ぶりを見ていた佐市は、日本の国は松の国と言われながら盆栽界で認識されていないのはなぜであろう。なんとか三河地方の特産である黒松を世に出したい。なんとか愛好家に喜んで作ってもらう方法はないかと思案していました。 思案の結果、この頃偶然に見つけた黒松の短葉法を研究改良して、鑑賞に飽くことを知らぬ美しさを具現する以外にないという結論を得たのです。
それからというもの、作り映えのする黒松を買い集めては、研究培養を続けてきました。このような状態を6~7年ほど続け、短葉法の成果も定着しはじめた頃には、短葉法で綺麗に整った黒松を国風展に出品しようと新たな取り組みを始めます。 地元の著名な愛好家の援助も受けつつ、銘品になる素質を持った素材を買い集め培養を続け、ついに昭和32年の第31回国風盆栽展に出品を果たすことになったのです。万感の思いを込めた出品でしたが、すぐに世間にその素晴らしさを知らしめるものにはなりませんでした。「これは偶然にできたもので、この年だけ。毎年このように作ることが出来るものではない。」といった批判が出たからです。
これを受け、鈴木佐市は同じ樹を同じレベルの仕上がりで翌年の三越の盆栽展に出品しました。またそれ以降も、毎年国風展に次々に違った黒松を出品したものです。結果、昭和30年代初頭頃を機に、黒松盆栽の夜明けとなりました。 これ以降、黒松の短葉法の存在が裁界に広く普及していき、今では黒松といえば「芽切り」といった具合に、当たり前の技術になりました。
瑞祥は、細かく綺麗な優れた葉性を持ち、芽吹きがよく、そして年を追うごとにみせる加速度的な太りと、下枝から順次できてくるという、理想的な育ち方をします。正に盆栽になるために生まれてきたような魅力あふれる樹種です。この樹種が裁界で広く親しまれ、多くの愛好家に作られるようになった背景にも、大樹園初代園主である、鈴木佐市が大きく関わっています。
のちに鈴木佐市により「瑞祥」と名付けられる、その八ッ房五葉松との出会いは昭和23年の第22回国風展でのことでした。小品の席飾りの添えとして飾られていた瑞祥の祖木を初めてみたその時の感想は、「同じ五葉松の中でも極めて女性的な印象で、芽そのものが細く葉も短く優しい。芽数が極めて多く、自然に無理なく身体に合った芽や葉を持っていて普通のもんじゃないな。」とこの年の出品樹の中でも心に強く残るものがありました。
この出会いから2年後、この時の樹と運命的な再会を果たします。前蔵者の都合により手放すことになったため、買い手を探していたが、八ッ房ブームの渦中であまりに価格が高騰していたため、東京で買い手がつかず、著名な愛好家の多かった岡崎の地に持ち込まれ、再び佐市の前に姿を見せたのです。しかしあまりの価格に自らの手に負えなかったため、岡崎一円の愛好家を訪ね歩き、最終的に戦後急速に趣味者として興味を高めつつあった太田幸平氏が購入し、佐市がその培養を任されることになりました。この運命的なご縁が無ければ、瑞祥が裁界に知れ渡ることがなかったのかもしれません。
佐市はその後10年間この祖木を管理したが、その間にこの瑞祥は驚異的な成長を遂げることになります。昭和29年に開催された第29回国風盆栽展に出品された時には、前回の国風展からわずか6年しか経っていないにもかかわらず、樹高20cmから樹高49cmまで驚異的な成長を見せ、旧姿を知るものには驚きを与えました。このことからも瑞祥の持つ成長力と、盆栽に適した特性が知られ、さらに注目されることとなりました。 この素晴らしい特性を持った樹種を後世に伝えるべく、繁殖させておくため、最初の挿し木を行ったのが昭和29年6月23日です。この挿し木第一期生はマッチの軸ほどの太さの芽を挿し穂として、11本の芽が素焼き鉢に挿されました。そのうち9本が無事活着し、瑞祥として初めての繁殖を成功させたのでした。これを機に瑞祥が裁界に広まっていくこととなります。
佐市と瑞祥を語るうえで外せないのが、昭和51年に第1回作風展に出品され、初めての内閣総理大臣賞を受賞することになった「龍鳳」があります。 龍鳳の親木は、挿し木2期生として昭和30年に生まれたものであり、この13年後の昭和43年に親木の一の枝に対し、瑞祥として初めての取り木を試みるべく、環状剥皮と念のための雇い根を補足した2段構えで行われ、見事成功し翌年の昭和44年に独立させ誕生したものです。 取り木間もない頃は、その見た目から、魚の骨のようだと揶揄されたものの、その後驚異的な成長力を見せ、独立5年後の昭和49年第48回国風盆栽展において国風展初出品。そのわずか3年後には作風展で内閣総理大臣賞を受賞と目覚ましい活躍を遂げています。 この後、龍鳳の名声が高まるに従い、この名樹を求める声が数多くあったものの、平成3年に他界するまで決して手放すことのなかった、佐市の思いのこもった樹です。